「富裕層ビジネス」の罠

 

「富裕層」という言葉

 「富裕層」という言葉を聞くと、社会哲学者の浅田彰氏のことを思い出します。

 浅田氏が富裕層に属するかどうかは知りません。ただ、80年代に哲学書としては驚異的ともいえるベストセラーを出した彼が、マスコミから「天才少年」と呼ばれていたのを、「珍種の動物のような言われ方だ」と自嘲的に語っていたのが、「富裕層」という言葉の語感と妙に重なる気がするからです。

 哲学のことなど皆目わからないマスコミが付けた「天才少年」というレッテルと、富豪をただ単にマーケティングの対象としか捉えていない「富裕層」という言葉は、その虚しさにおいて、一脈通ずるところがあると思います。やや羨望の混じった、もの珍しげな視線も共通しています。しかし、「富裕層」の場合、さらに悪いのは、「効率よく(ということは「薄利多売」でなく)儲けさせてくれそうだ」というニュアンスが付き纏っていることです。これに対して、「富豪」や「お金持ち」という語にはそういう連想は働きません。

 

お金持ちに対する無理解

 言葉の問題はどうでもいいようなものかも知れませんが、実際、富裕層ならぬ人たちの展開する「富裕層ビジネス」のちぐはぐさには、どうしても矛盾を感じてしまいます。

 ある本によれば、「富裕層」を対象とするビジネスは、「自分は特別扱いされている」といった自尊心を刺激することが重要なのであり、そのためのお膳立てとして「特別な応接室」などを設ける必要がある、とのこと。金融サービスでさえ、否、金融サービスだからこそそうなのだ、といった調子です。

 このような態度には、正直、首を傾げざるを得ません。

 確かに、「応接室」は必要でしょう。しかし、これは顧客の秘密を守るためであり、顧客のプライドをくすぐるためではないはずです。すなわち、お金持ちともなれば有象無象の輩がその資産を狙っていますから、そのプライバシーを守るためには、「窓口で応対」というわけには行かないからです。つまり、実質的な意味があるわけです。それなのに、「金持ちはサービスのコストは気にしないから、コストをかけて自尊心をくすぐるようなサービスをすれば、きっとうまく行く」などというのは、ステレオタイプも甚だしいと言わざるを得ません。冒頭の浅田氏が「天才少年」と呼ばれて「人間扱いされていない」と感じたように、一生富豪にはなれそうもない人たちによる、お金持ちに対する無理解が感じられる態度だと言えます。

 

顧客に還元する

 お金持ちに対するサービスは、コストがかかるように思われるかも知れません。しかし、そもそも少数の富豪を相手にビジネスするのは、「一人一人に手厚いサービスを提供しながら全体としてコスト・ダウンをはかり、その分を顧客に還元する」ことに意味があるのではないでしょうか。とりわけ、金融においてはそうなのです。何故なら、金融サービスにおいては、コストが運用成績に直接反映されるからです。そして、その「運用成績」こそが、サービスの「品質」を決める最も重要な要素であるのです。

 「富裕層だから」という理由で、大して意味のないコストを支払わせるなど、言語道断というべきです。

 

「富豪のニーズを満たせる者は富豪である」

 最近、格差が問題となっているとは言え、いまだ階級社会でない日本では、「富裕層」と言われる人々も多くは一代で財をなしたと言われています。一時的にせよ貧しい時期を経験したこともあったでしょうし、普通の人たちよりも多くのリスクを負って、いく度もの危機を乗り越えてきたに違いないのです。そのような人たちに向かって、小手先のテクニックを弄したところで、凡人が何かできるというものではありません。

 ヨーロッパでは、「富豪のニーズを満たせる者は富豪である」と言われています。富豪の気持ちが真に理解できるのは富豪しかないというのは本当だと思います。その意味で、富豪が真に信用できる相手もまた富豪でしょう。ですから、「富裕層ビジネス」などと言って、年収400万円の社員が、年収600万円の社員から研修を受けたりする姿は滑稽でしかありません。

では、日本で、富豪ならぬ私たちは何が出来るのでしょうか。それは、誠心誠意で「富豪から学ぶ」ということだけでしょう。これを忘れて、安易な「富裕層ビジネス」に走ったとしても、ヨーロッパで行なわれている「富豪による富豪のためのサービス」(金融分野では、これが「プライベート・バンキング」に他なりません)にかなうはずはないのです。

 

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