Part 2 ニート・ひきこもりの就労と自営ビジネス
まともな対話をするために
もしニートやひきこもりの親にあたる人たちが、こんな社会にそれなりに適応できているのだとしたら、企業の振るう暴力に対して、知らず知らずのうちに「見て見ぬふり」をしてきたか、「暴力を振るう側」になっていた可能性がある。もちろん、多くの場合はあからさまな肉体的暴力ではないのだろうし、それが暴力であるとさえ気付かなかったのかも知れない。しかし、だからといってニートやひきこもりの「良心」に対抗できるだけの「正義」が大人たちの側にあることにはならない。従ってそんな自分たちの言い分をいくら言い募ってみたところで、ニートやひきこもりを納得させ、就業させることはできないだろう。それどころか、大人たちの主張は、自分たちを非情と暴力の世界に無理やり引きずり込もうとする悪魔の論理としか聞こえない可能性もある。これではまともな対話をすることは不可能だ。
それでは、親の世代がニートやひきこもりと対話するには、どうすればいいのだろうか。
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まず、この世の中が異常であると認めなければならないだろう。異常なのは社会のほうであって、世の中がこんな状態なのだから「ニート」や「ひきこもり」になるのは、良心ある者としてごくまっとうな反応なのである。
また、世の中がおかしいという前提に立つなら、それにうまく適応できる者が偉いということにはならないだろう。うまく適応している(ようにみえる)のは、多くの場合、良心を捨てるか、麻痺させたような連中にすぎないからだ。まあ、それが「大人になる」ということかも知れないが、見落としてはならないのは、適応している人たちにしても決して幸せなのではないということだ。もし幸せだったら、ニートやひきこもりに対して「怠け者」呼ばわりはしない。「怠け者」という非難は、言いかえれば「俺たちの不幸を共有していない奴ら」ということだからである。
「社会性」があるうちに
しかし、たとえ異常なのが社会の側であって、良心はニートやひきこもりの側にあるとしても、現状がそのままでいいわけではない。
ニートやひきこもりの状態が長引けば、収入がないことは言うまでもないし、社会性も次第に失われていく。友人などとの親密な交流があればまだいいが、やがて家族ともろくに口を利かないようになると、精神科医などの治療によって社会性を回復しなければならなくなる。
また、これまで「社会の異常さ」ばかりを強調してきたが、この社会のすべてが異常なわけではもちろんない。仕事をすれば楽しいことも嬉しいこともあり、仕事によって自分が成長できたと思えることもある。
確かに世の中はおかしいし、個人としてはその「おかしさ」をどうすることもできないかも知れないが、ずっと仕事をしないままでいるのもまた、もったいない話なのだ。
だからニートになってもまだ社会性が残っているうちに、あるいはひきこもってしまったとしても治療などによって社会性がいくらかでも回復できたなら、時期を見ながら仕事をすることを考えてみたほうがいい。
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「仕事」には「自営」もある
ただし、ここで誤解のないように言っておくと、「仕事をする」ということは「雇用される」ということを必ずしも意味しない。
「雇用される」ということは、正社員、派遣社員、アルバイトなどとして雇われ、雇用主から給料をもらうということだ。これは言わば、ニートやひきこもりである人たちにとっては、いったん離脱した戦線に復帰する、あるいは孤立無援の状態で暴力に立ち向かうのにも似て、相当な緊張を強いられることだろう。
「仕事・就業」=「就労・雇用」という思い込みが、はじめの一歩を鉄下駄のように重くする。就職活動をする、面接があるというだけで、いたたまれない気持ちになることもある。
しかし、思い出してほしいのは、「仕事」には「自営」というやり方もあるということだ。
「起業」というほど大げさでなくともよい。要するに、どんな仕事をするかを自分で決めて、さっさと始めてしまうことだ。
「自営業」のメリット
自営なら就職活動などいらないし、当然ながら面接なんて受けなくてもよい。どうでもいいようなことについて、ああだ、こうだと指示されることもない。「仕事ができない」と上司や同僚から見下されることもない。ある意味で理想の働き方なのである。
さらに「自営」の良いところは、お客様とじかに向き合えるところだ。良い仕事をすれば、反応が直接返ってくるので、やりがいがある。「お客様に喜んでもらうことで、おカネをいただく」というのは、仕事の基本だ。自営であれば、どうすれば喜んでもらえるかを考えたら、すぐさま実行に移すことができる。建前でなく、本当の「お客様第一」を貫けるのが自営という働き方なのである。
2. ニート、ひきこもりの就労と自営ビジネス
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