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自己啓発本の古典

 

寄付のパラドックス

 深層心理学では、人間の心には「合理化」のメカニズムが備わっているという。簡単に言うと、ありのままでは受け入れ難い現実を、解釈を変えることで受け容れやすくし、心の平静を保とうとする働きのことである。典型的には、入学試験に失敗したときに、学力不足という現実に向き合うよりは、「運が悪かっただけだ」とか「もともと行きたい学校ではなかった」と考えるような心理的傾向を指す。というと、単なる現実逃避のように聞こえるかも知れないが、いつまでもくよくよ悩まずに、心機一転、再出発を遂げるためには必要な心理的メカニズムだと言えるだろう。

 チップ・コリンズでなくとも、なけなしの財産を寄付するなどということは、相当の覚悟がなくてはできるものではない。たとえ腹を括っているように見えても、心理的な負担はかなりのものだろう。この負担を軽くするために、合理化のメカニズムが働く。その際に用いられる論理こそ、まさにマーク・ビクター・ハンセンの説く「神からいただいたものの一部を神に返す」ということである。日本人であれば、「神」を「世の中」と言い換えてもよい。自分がこれだけの収入を得ているのは「世の中のおかげ」なのだから、その一部を「世の中に返す」のは当然だということにして、自分を納得させようとするわけだ。

 これに対して、寄付を受ける側では、「寄付を受けたこと」に対する心理的負担を減らそうとするメカニズムが働くので、逆に「有意義な活動をしているのだから寄付はもらって当然」という思考に陥りがちになる。かくして、寄付というものは、ややもすると、寄付する側が「感謝の念」を強く感じる一方で、受ける側はそれほどでもないというパラドックスを生じる可能性をはらむものなのである。

 

 

自己中心思考を転換

 しかし、寄付をする側にとっても、これは決して悪いことではない。感謝の念を抱きながら生きている人のほうが、被害者意識にさいなまれている人よりも少なくとも幸福だし、ビジネスにおいても多くのチャンスを引き寄せる可能性があることは明らかだからである。

 被害者意識のある人は自己中心的に考える。それというのも、自分が受けた被害、あるいは払った犠牲に見合うものを受け取らない限りは、外に目を向けるだけの心のゆとりが得られないからである。けれども、それは容易に与えられるものではない。「社会が悪い」という言い方に典型的に見られるように、多くの場合は、そもそも誰が加害者であるとも特定できないものだし、いつまで待ったとしても社会は何かしら悪いに違いないからだ。そんなことより、自己中心的な思考を続けて人望を失い、孤立してしまう害のほうがよほど大きい。

 そんなことなら、いっそのこと意識的に「感謝」の方向に舵を切り、意識転換をはかったらどうか。正に、そのための非常識だが有効な方法が、「寄付」だということなのである。

 

「感謝」に思考の軸を移す

 自己中心思考を転換して、「感謝」に思考の軸を置いたとき、自分を取巻く世界は一変するだろう。自己中心的思考においては、「人に与えるもの」よりも「自分が受け取るもの」のほうに意識が集中している。そうなると、「人に与える価値」を減らすことで「自分が受け取る価値」を増やせるのではないかという誘惑が常に付きまとう。

これに対して、「感謝」に思考の軸が移り、「自分が受け取るもの」よりも「人に与えるもの」に関心が向くと、自然に「人に与える価値」の向上について考えるようになるだろう。いまどき、1000円の価値のものを1000円で売っていても人を感動させることはできない。1000円で売っているものの価値が1000円以下だったら怒られるだろうが、1000円の価値のものを1000円で売っていても、人は「しかたなく」買うだけだ。1000円で売っているものの価値が1000円以上あると思うからこそ、人は喜んで買ってくれるのである。

そんなビジネス環境の中、自己中心的思考で生き残っていけるのは独占企業か規制産業くらいのものである。アメリカの自己啓発や成功哲学の多くが起業家や中小企業経営者に向けて書かれていることを書かれていることを考えると、そこで「感謝」が強調されているのは当然といってもいいくらいである。

 

強固な信念の形成

 「寄付」のもう一つの効果は、強固な信念の形成である。チップ・コリンズの例を見てもわかるように、傍目から見れば単なる偶然にしかすぎないものが、彼にとっては「神のご加護」であって「必然」であるとしか思われない。この事実もやはり深層心理学的な「合理化」によって説明できるだろう。依頼主が同じ教会に居合わせたという偶然を必然と解釈することによって、なけなしの財産を寄付することの心理的負担が軽くなるのである。

しかし、重要なことは彼のその信念そのものであって、科学的に、あるいは客観的に見たときにそれが偶然か必然かということではない。単なる偶然を「必然」と信じ切ってしまうほどの精神的なパワーがビジネスには必要だからだ。

 

 

寄付と投資は似たものどうしである

 とは言え、マーク・ビクター・ハンセンの言うように、収入の十分の一を寄付に回すというのは、私たち凡人には荷が重過ぎるだろう。そもそも社会福祉の相当部分がNPOで賄われているようなアメリカと異なり、日本ではNPOといっても何をやっているのかよくわからないし、財務内容も開示されていなければ寄付金がどのように使われているのかもチェックできない。街頭募金も悪くはないが、慈善とはある種の物乞いであるかのような誤解を与えかねない。もっとプレゼンテーションのあり方を考え直したほうがよいのではないかと思う。こういう現状では、やはり寄付金を拠出するというよりは、ボランティアとして労役を提供するほうが中心になるのかも知れない。ボランティアとして活動すれば、自分が何に貢献しているのか目に見えやすいからだ。

 また、最近では、寄付と投資の中間のようなファンドの設立も目立っている。代表的なものは東日本大震災の被災地支援ファンドだろう。ファンドであれば会計情報の開示もしっかりしており、出資金の使い道もわかりやすい。寄付とは「神や善や宇宙への投資のようなもの」というマーク・ビクター・ハンセンの言葉を待つまでもなく、寄付と投資は似たものどうしである。ただ、そのリターンを受け取るのが「自分だけ」か「(自分を含む)社会全体」かという違いがあるだけだ。しかも、ちょっと考えてみればわかることだが、寄付とはどんな金融商品もかなわない「最高のリターンが得られる投資」なのである。それというのも、わずかな金額でも人の命を救うことができるからだ。そうして救われた人が一生の間に社会に還元できる有形無形の富を思えば、その意味が納得できるのではないだろうか。

 

「将来、寄付のできる人間」を目指す

 長引く景気低迷の上に、天災・人災が続き、国力の低下が真面目に議論されている今、日本人の多くが被害者意識を持ち、自己中心的な思考に陥る傾向がなしとしない。こんなとき、舶来の自己啓発本や成功哲学を読んだとしても、迷信か、単なるきれいごとにしか聞こえない可能性もある。けれども、「寄付」一つとってもこれだけの根拠を挙げることが可能なのである。この機会に読み返し、今すぐは無理でも、「将来、寄付のできる人間」を目指してみてはどうだろうか。きっと新しい展望が開けてくるのではないかと思う。

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